自分の人生は100%自分の思い通りになります

変わりたくても変われない、人生変えようとしても変わらないのはなぜ?

引き寄せの法則〜いい気分になれない時のとっておきの方法〜

引き寄せの法則が流行ってから、

いい気分になれない、周りの人のせいで波動が下がってしまう・・・

自分はなんてネガティブなんだろう・・・

などいろいろといい気分でいられないと、悩まれているお話をよく聞いてきました。

 

 

 

私たちの中にある深い深い信念の中に、

「何かを見たせいで自分がそういう気持ちなる」という考え方が根付いているから

だと思うのです。

 

 

 

小さな頃から「そんなことするならママ泣いちゃうよ」とか、

「〜したら怒るからね!」とか、

そういう思考パターンを教わってきているんですよね。

 

感情を惹起させるのは、外側の出来事である。

 

というふうに思い込んできました。

 

 

 

だから、自分達は常に受け身だったわけです。

〜が起こった時は〜という感情が発動する。

 

のように、自分の感情は外の出来事いかんというわけです。

 

 

 

これが単に信念(思い込み)である。

といったのが、心理学者のフロイトとか脳の研究をされている先生たちとか、

奇跡のコースの中のキリスト意識とかですね。

 

 

 

私たちは、何かを見て判断したのではなくて、

先に内側にあるものを映写機のように映し出して外の世界を見ている。

というわけです。

 

 

 

なので、本当に起きている脳のメカニズムとしては、

外で見ている状況というのは、すでに「結果」であるので

それが「原因」になって自分が気分悪くなるということはない。

ということです。

 

 

 

ここのところが、おそらく0コンマ何秒という世界で、

知覚することと意識とがやりとりしている部分で通常はわかりにくいのだと思います。

「何かを体験したから、自分はそういう気持ちになっている」のではなく、

そういう気持ちだったから(意識ができにくいレベルであっても)

そういう状況を見たということです。

 

 

 

そう考えていくと、自分が受信者だったのではなく、

実は、自分が発信者側だったということですよね。

 

 

 

無意識だったけれど、発信者だったということです。

 

 

 

私たちは受け身というか、ある意味被害者的な立場で

外の世界を見てきたり関わってきたわけですが、

発信者だということは、見ている世界を変える力が自分にあったということです。

 

 

 

そこで重要なのが、

受信者として無力感や、落ち着かない気持ちになるのではなく、

自分がいわゆるマイナスイオン発生器」になることに専念するということです(笑)

↑例が古い? ( ´•ᴗ•ก )

 

 

 

いつも、周りに喜ばせてもらわなければ自分がいい気分になれないというのでは

あまりにも無力だったと思いませんか。

そしてそうではなかったのなら、

自分がいいエネルギーを先に発することをいつも心がけておくということです。

 

 

 

いい気分でいなければ・・・

というところから、

「自分が世界に向けていいエネルギーを放つ」ことが自分の役目。

「放つ」ことが目的です。

どうでしょうか?

全く異なった感じがしませんか?

 

 

 

いい気分でいたら、いいことが起こる。

それですと、まだ自分という人間はどこか無力なままなんですよね。

 

 

 

自分の内側の愛を中心として、いいエネルギー(愛)を発して

外の世界にもポジティブな影響を延長させていく。

そちらの方が誰かの行動の影響や気分、振る舞い、発言の影響を受けにくいと思いませんか?

 

 

 

私というのは、世の中の受信機ではないのです。

世の中の状況、誰かのエネルギー、立てる音などに耳をそば立てて

それをキャッチして判断している場合ではなかったのです。

 

 

 

嫌な人と会うと嫌な気分になってしまう。

明日もあの人と会うのが嫌・・・何かされたら波動が下がってしまう・・・

と心配するのではなくて、

「私の内側の愛を広げていく」周りに影響を与えるのは私の中の愛。

というところに意識を向けます。

 

 

 

私から愛を発信する。

周りの状況をキャッチして判断するのではなくて、

周りの状況ではなく、自分の中の愛に意識を向けて、それを広げていく。

それが、私(みなさん)の役割なのです。

 

 

 

そして、発信機になることが最も大きな幸福への近道だったことに気がつくと思います。

目的をあやまると自分本来の幸せから遠ざかる

私たちはそれぞれ「自分本来」の目的のみを歩むことによって

幸せでいられるし、必要なお金や物質などにも恵まれるようにできています。

 

 

 

自分の本当の道を歩んでいれば、

何かにひどく困ることというのは訪れないはずなのです。

 

 

 

けれど、自分本来の道、つまり自分の生きる目的が誤ると

自分自身も幸せを感じにくく、お金を浪費することになったり、

少しのお金を稼ぐことにも苦労したり、

生きることが大変になります。

 

 

 

私たちが生きてきている間、

道を誤らせるさまざまな誘惑があります。内側にも外側にもたくさんあります。

小さなものから大きなものまで・・・

 

例えば、親の期待もそうです。

親から愛されたくて、期待に応えたくて親の期待に沿って生きてしまえば

自分の道からは外れてしまいます。

 

 

 

他にも恋人、友達、先生。

自分に自信がなければ、その人たちの期待に応えたり

仲間でいるために本当の自分の心の目的を見失って生きてしまいます。

 

 

 

テレビのCMや、雑誌などのメディア、SNSの投稿などを見て

本当に必要ではないものを欲しいものだと思い

それを獲得するために、したくもない仕事をしてお金をたくさん得ることだけが

生きる目的になってしまえば、それもまた道を逸れています。

 

 

 

将来の不安から、したくもない仕事で耐え、

食べたいものより特売品を購入して生活していたら

それもまた、生き残るために「自分」を犠牲にしているのです。

 

 

 

私たちは、自分が欲しいと思っているものでさえ本当はそう思わされているものだったり、

人からの承認を得るために自分の幸せを犠牲にしたりしているのです。

 

そして、まさに、それが幸せから遠ざかる原因なのです。

 

私たちは、本当に自分の人生ラインに戻らないといけないんですね。

 

 

 

では、どのように自分本来の道に戻ったらいいのか?

 

 

 

ブログでもいろいろ書いていますが、

基本は思考(自我)はエゴと呼ばれるもので

自分の本来の道から遠ざけるものだということなので

その声には従わないようにするということです。

 

自分を焦らせたり、足りないと思わせたりするような

外側の声、思考の声に従わないということです。

不安が強いと、YouTubeの広告や、テレビ、雑誌、なんでもいいですが

これを買わないと損しますよ!出遅れますよ!みたいなものに

左右されてしまいます。

そういった不足の動機からうごかないということが大事です。

 

 

 

そして、自分の幸せな人生ラインに戻っていくためには

自分の内側の静かに語りかけてくれている声に耳を傾けなければなりません。

そして、それにのみ従って生きるということですね。

 

また、詳しく書いていきたいと思います。

 

おさめたい怒り、どうしてもゆるせないことがある時に思い出したいこと

今日は、朝目が覚めた時からイライラして

少し前のことを思い出して、ものすごい怒りに包まれてしまいました。

 

 

 

気がつけばそのことを思い出して

自分の心を見つめつつ、ゆるせるよう宇宙に祈りつつ・・・

それでも気がおさまらない・・・

それでも祈る・・・

なんて繰り返していました。

 

 

 

そんな風にイライラしていたら、

そうだ、PMSの時期か?と体調管理アプリを開いたら

やっぱりそうだった!

そうか!この怒りは仕方ないのか!と思っていました。

 

 

 

イライラしながらもYouTubeを見ようかな〜となんとなく

開いてある動画の周辺を見ていたら

「怒りについて」なんていう海外の動画を見つけました。

 

 

わたしは自分が考えているような理由で動揺しているのではありません。

(「奇跡のコース」ワークブックレッスン5より)

 

つまり、自分が考えているような理由で怒っているのではない。

ということです。

 

この言葉を聞いて、瞬間で我にかえりました。

 

 

 

あそこまで怒りを感じてどうしようもなかったのに・・・

一瞬です。

私の怒りの理由はあの人のせい。

そう思っていた時は怒りが収まらなかったのに、

怒りの理由がその相手ではない。そう思い出した瞬間、

怒りが吹き飛ぶってすごいことです。

 

 

 

今、怒りを感じているのは明らかにあの人間のああいう性格、やり方のせい・・・

そう思っていたところを

この怒りの原因はあの人のせいではなかったのか・・・

と思うと怒りが湧いて来なくなるから不思議なものです。

 

 

 

そして、PMSのせいでもないのでした(笑)

 

 

 

怒りを感じた時に、これは思っていることが原因ではないのか・・・

本当はそうではなかったのか・・・

相手が原因ではなかったのか・・・

そう気がつくと、改めて私たちの自我の心理メカニズムとは複雑だと思います。

けれど、それと同時に原因が外側にあったのなら救いはないけれど

自分が原因でよかったとも思います。

自分が原因であれば、他の人を変化させるよりもずっと変化させることが容易ですから。

お金は無限にある?受け取れないたった一つの理由とは


スピリチュアルの世界では「お金は無限にある」と聞きますよね。

なぜなら、「お金はエネルギー」だからです・・・

そんな風に何度も聞いたことがあるかもしれません。

 

 

 

では、なぜ自分の元にはいつもこれくらいのお金しかないのだろう?

と思ったことはありませんか?

 

 

 

気づきを得たたくさんの方々がお金は無限にあるということを

様々な方法で説明をしています。

 

 

 

あらゆる物質(お金)というのは、目に見えない無限にあるエネルギーから、

それこそ、そこらじゅうに充満しているエネルギーから生まれているので

確かに、無限にあるといえます。

 

そのエネルギーを物質化させる鍵が私たち自身にあるのです。

その鍵が、私たちの波動とか、心とか、信念などと呼ばれているものですね。

 

 

 

では、なぜ無限のお金があるのに受け取ることができないのでしょうか?

 

 

 

受け取れないのは、お金に対して持っている様々な思いがブロックして

無限に供給するパイプを詰まらせているからです。

これがたった一つの理由です。

パイプが詰まってしまっている。それが理由です。

 

 

 

お金に対してのいろいろな期待、執着、不安・・・お金に対しての特別な思いが

自然な流れを妨げています。

自分は受け取るに値しないという罪悪感がパイプを詰まらせます。

 

 

例えば、お金は労働の対価だと信じていたら

働かない限りお金は流れてきません。

 

例えば、お金は頑張って努力して稼がないといけない、

そう信じていたら身を粉にして働いてお金は少し稼げても

いつも疲れているかもしれません。

そして、お金をもらうということは大変なことだと信じてしまっているかもしれません。

 

例えば、お金をもらうということは人の言いなりになることだと信じていたら

お金が入ってくることを無意識のうちに拒みます。

 

例えば、自分は罪を犯したことがあり、悪い存在だと思ってしまっていたら

お金を単なる天からの贈り物として受け取ることは難しいでしょう。

 

お金に対して持っているいろいろな信念(自分に対しての信念)が

今、自分が持っているお金に現れています。

 

 

 

お金はどんな存在であって欲しいでしょうか?

 

 

 

自分だけたくさん持っていればいい?

それでは、自分はまだお金に支配されているということにならないでしょうか?

 

お金が無限にあるということは、本当に無限にあるということです。

例えば、無限にあるお金の中から3億円、毎月欲しいと思うでしょうか?

限定してしまっていいのでしょうか?

 

 

 

まず、お金がエネルギーであって、それは空気と全く同じように

誰にでも与えられていて、貧困に喘ぐ国の人たちにも

空気は今のところ存分に与えられているということを思い出してみてください。

 

そして、その空気を将来のために溜め込む人もいないし

自分のものとして貯蓄して、貸し借りする人もいなければ

空気のために自分を犠牲にする人もいません。

生きるにはお金や水以上になければ困る空気のために

誰も自分の身を粉にしてまで働く人がいないというのは面白いことですよね。

 

 

 

実は空気に対するように自然にお金にも接する必要があるのです。

出し惜しみもしない(誰も空気を吐き出すことを惜しむ人はいません)

必要以上に溜め込むこともしない(吸い過ぎれば逆に苦しくなります)

収入の多寡で自分の価値を決めない(空気をたくさん吸える人の方がすごい?)

 

あげたらキリがありませんよね・・・

 

 

 

この世界は自分の思考を元にして、

まるで、自分がこの一つの宇宙の主人のように他の人にも影響を与えていくのだとしたら・・・

 

本当に豊かな自分の王国を作り上げていくとしたら?

どのようにお金と関わるでしょうか。

 

 

 

お金は本当に無限にあります。

空気が尽きないように・・・

 

 

 

生きるのに最も欠かせない空気が今のところ無限にあり、

空気に困っている人が世の中にほぼいないのは

みんなが空気とどんな風に関わっているからなのか?

 

今一度自分自身の心を見直してみたいですね。

 

自分を愛することが難しい時に思い出したいこと

私たちの自我の中には当たり前のように「愛されたい」という

気持ちがあると思います。

 

 

 

幼少の頃からこうした気持ちを持ち、

いつの頃からか、愛されるために自分を相手に合わせる。ということをし始めます。

 

 

 

気がついたら、自分は自分ではなくなっていた・・・

なんてこともあるかもしれません。

 

 

 

幼少の頃から、親の期待に応えるためにありのままの自分を削り、

学校という社会に合わせるために自分を削り、

恋人に愛されるために自分を削り・・・

 

そうしているうちに自分が誰だったか

本当に好きなものはなんだったかも忘れ、

不適応感だけが残っていく・・・

 

 

 

そういう中でほとんどの人は生きてきました。

自分の本心を忘れ、感じないようにして生きてきて

自分の中心と外れて生きてきた自分を愛しなさいと今更言われても

無理です。それは自然です。

 

だって、本当の自分の声を無視して周りの声を聞いて生きてきて

周りの期待が今の自分を作り上げたと言ってもいいかもしれません。

そんな自分にYESといえないですよね。

普通です。

 

 

 

そう考えていくと、今の自分、この自我の自分は自分ではなく

周りが創った自分ですね。

それをペルソナ(仮面)と言ってもいいですね。

 

 

 

私たちが、ありのままの自分を受け入れて愛するために

何かを実現していたり、できていなかったり、ダメだと思う部分だったり

いいと思う部分だったり、そういった部分を自分自身だと捉えすぎないことが大切です。

それもペルソナです。

 

 

 

何が良くて、何が悪いかという基準も世の中や他人が与えたものに過ぎません。

それに合うか合わないかで自分をいいか悪いか判断するのはおかしくないですか?

 

 

 

どれだけ成功していても、自我の自分の方を自分だと思っているかぎり

その自分を丸ごと愛そうと思っても、その価値を認めようと思っても不可能です。

なぜなら、自我とはそういうメカニズムでできているからです。

 

 

 

そして、その代わりに、本当の自分という神の位置から

全ての自分の特徴を見つめてみてください。

外側から自分の人生を見る感じです。

 

その自分は、自分でそうなったのではなく

恐竜がいた頃から、DNAとして、続いてきた先祖代々の歴史の結果として、そこにあります。

性格も肉体的な特徴も自分で自分がそうなったというよりも

自分が親から生まれて、その親は祖父母から生まれて、祖父母は曽祖父から生まれて・・・

その人たちがどこで暮らして、何を体験して、どういう影響を受けて・・・

全ての歴史の結果が自分です。

 

歴史の物語の1つのページとして自分の物語、自分という登場人物を見つめてください。

 

大変な中、一生懸命にやってきたな・・・って

愛おしさが湧いてきませんか。

 

 

 

自我の自分は自分で思っているほど、自分人生をコントロールできません。

自我の中に入っていると、自分でコントロールできたはずだと思いますが、

ほとんどのことは自然にそう考えるようになって、そう行動するよう

プログラミングされていると考えても良いです。

ちなみに、好きな食べ物、好きな飲み物なども

ほとんどが親の影響を受けていると言います。

 

 

 

誰から生まれて、どこに住み、どんな環境で育って、

どんな学校でどんな先生から教えを受けて・・・

そういう中で自分という自我が育まれてきているので

ほとんど自分では選べていなかったのです。

 

そうなることは決まっていたのです。

そして、決まっていた物語として客観的に自分を外から見つめてみてください。

よくやってきたじゃん。しか出てこないのではないでしょうか。

 

 

 

自分を受け入れられないのは、別の選択肢もあって

自分の努力でそれが実現できたはずなのにじぶんはできなかった。

しなかった。そういう思いがあるからかもしれません。

でも、無理なのです。この物語はそうできてはいなかった。

初めからそうなるようになっていたんです。

 

なんのために?

 

 

 

自我のゴールは自分に罪悪感を持たせるためでした。

自分の素晴らしさを忘れ、自分を憎み、劣等感や欠落感を感じることがゴールです。

もし、自分を愛することが難しいのなら、

自我の作戦が成功したということです。単にそれだけだったんです。

自分が悪いから、至らなかったから、努力不足だったから、

自分を愛することが難しいのではなく、自分を愛さないでいられるようにすることが

この自我が作った自分の歴史の目的だったのです。

 

 

 

自分を愛するというのは、自我は自分でなかったと目覚めることです。

自分だと思ってきた自分とは、DNAと代々続く歴史が作り上げた虚構です。

それは自分ではありません。なんでもありません。

周りに創り上げられてきたペルソナです。

それは自分ではないので、それを愛そうとする必要はありませんが、

本当の自分に気がつくと、自分は愛だと気がつくので、その愛が自我の自分にも広がります。

「今」だけが無限の可能性への扉



ちょっと不思議な秘密。

だけどとてつもなく重要な真実をお話しします。

 

 

 

私たちは未来のことを憂いたり、不安に思ったり、ネガティブな予測をしたり

そうではなかったら過去のことを思い返してイライラしていたり後悔したり・・・

未来や過去に思考を行ったり来たりさせていることが多くないでしょうか?

 

 

 

本当は知りたくなかった?

でも、どこかで気がついていた秘密を分かち合いたいと思います。

 

 

 

 

未来のことを心配して考えている時、その未来は過去のようになります。

過去のことを考えいてる時、未来もそのようになります。

 

 

 

 

未来のことを思って不安に思っている時、

なぜ不安になっていたり嫌な気分になっているかというと、

過去に起きたことや聞いたことに基づいてそれが起こるのでは?と思っているからです。

 

 

 

未来を不安に思って心配したり、望まないことを予期している時、

こんな風になったらどうしよう・・・と思っている時、

それは未来を無限の可能性があるものとして捉えるのではなく

「過去」のようになったらどうしようと思っているからです。

 

 

 

そして、私たちの脳のメカニズムからし

未来を考える時には過去を基準に考えずにいられないのです。

 

 

 

ですから、本当に未来を過去とは違うものにしたいと思ったら

「過去のことは一切考えない、基準にしない、未来を過去の延長として考えない」

ということが重要なんです。

 

 

 

 

未来が不安になるのは過去の体験、過去に聞いたことが原因です。

こうなったらどうしようとか、またこの人はこんなふうに言うだろうとか・・・

それは全部過去が基準です。

 

その過去を繰り返したくない・・・

だからこそ、未来を考えるとき過去を投影するしかなくて

過去に起こったことを防ぐために(過去を基準に)未来に向けて行動したり

計画を立てたりします。

 

けれど、動機が過去の失敗、避けたかったことに焦点が当たっているため

どう転んでも、未来は過去と同じようになってしまうのです。

 

 

 

思い出してください。

 

動機=結果 でした。

 

 

 

もしも、過去の焼き直しの人生から出たかったら

未来の心配をしないこと、予測しないこと、

人間関係であれば、過去、その人(相手も自分も)がしたことを

一旦忘れることしかないのです。

そして「今」に焦点を当て続けるしかないんです。

 

 

 

そして、未来についてのポジティブな予測や意図を放つ必要はなく

つまり、未来のために準備や防衛を何もすることなく、

ただ、「今」にのみ意識を置き、目の前のことを味わって生きるだけでよかったんです。

 

 

 

私たち誰もはそのようにして生きる「力」を持っています。

むしろ、どんな状況にある人でも「今」を生きることだけは与えられています。

 

 

 

未来を過去のようなものにしたくなかったら、過去を基準にしないこと。

未来のために今を犠牲にするのでもなく、未来の準備のための今を生きるのでもなく、

ただ「今」の充実のために「今」を生きる。

 

 

 

今を見つめる=未来を信頼している=未来は信頼通りに大丈夫になる

 

 

 

そして、むしろ自分(自我)が未来を手放すので、

実は自分で何とかしようと思ったよりも未来は予測できなかった、思った以上のものになる。

 

 

 

神は「今」ここだけにあります。

今にいれば、未来は無限に開かれていきます。

無限の可能性を発揮した自分を体験できます。

 

 

 

今にいること=無限のパワーを持つ神の自分を発現しているフィルムを世界に上映中

 

 

 

瞬間瞬間、神意識という完全さ、愛だけを世界に映し出していきたいですね。

内なる神の声を聞く方法

私たちの人生は、内なる神に一致すればするほどかんたんになっていきます。

なぜなら、自分の力でなんとかする必要がなくなるからです。

 

 

 

でも、そのためには内なる神の声を聞く必要があります。

その内なる神(宇宙、愛、スピリット)の声がぜんぜん聞こえない。聞き取れない。

なんてこともあると思います。

 

 

 

これは、ラジオの周波数のようなもので、

そのチャンネルに合わせにいかないとなかなか聞き取れなかったりします。

でも、単にそれだけの問題で生まれつきとか、特殊能力とか

そういったことは関係ありません。

 

 

 

ラジオと一緒で常に流れてはいるのだけれど・・・

今この瞬間も語りかけられてはいるのだけれど・・・

チャンネルが合っていないと音が拾えないんですね。

 

 

 

まずは、「声」が存在していて常に流れているということを忘れずにいたいです。

 

そして、心の中で普通に話しかけるように話しかけてみてください。

心が静かな時の方がメッセージは受け取りやすいので

瞑想の習慣がある方は心が澄み渡った時に話しかけても良いかもしれません。

答えは声として聞こえたり、イメージとして浮かんだりするかもしれません。

 

 

 

内なる神の声の特徴は、言葉を超えた「声」といってもいいかもしれません。

言葉としてよどみなくつらつらと流れてくることもあるかもしれませんが、

その情報ひとかたまりとして、

なぜだかわからないけれど「わかる」といった感覚の方が近いかもしれません。

 

 

 

どこか知っていたような。

自分でもわかっていたような。

過去に頭をかすめていたような。

そんな内容のこともきっとたくさんあると思います。

 

 

 

そして、声が正しかったのかどうか?それがわからないときは

目に見える形で教えてほしい。

そうお願いすると、肉眼で捉えられる形で目の前にやってきます。

それが正しかったという証拠がいくつも現れてくるのでわかると思います。

 

 

 

そして、内なる神に一致していくために役に立つこと、

それが選びうる中で最も自分に優しい声を選び取るという方法です。

 

 

 

例えば、ダイエット中に食べ過ぎてしまったとして、

ブッダとか、キリストとか、とても優しい人だったらなんていうだろう?

と考えてみるというやり方です。

 

 

 

「いいんじゃない、別に食べてもいいんだよ」

「体重なんて関係ないよ」

「そんな小さなことで自分を責めないで」

「もう頑張らなくていいよ」

「どんなあなたも愛しています」

 

というかもしれません。

考えうる中で最も優しい声を選んでください。

それでもまだ内なる神が思っている慈悲の数万分の1くらいの優しさだと思いますが(笑

 

 

 

自分をジャッジしない。裁かない。

とことん自分に優しくしていくと、罪悪感(自我)は萎み

内なる神にピントが合ってきます。

 

 

 

自我の特徴は、厳しさです。批判です。頑張りです。

神の声は自由と解放に近づいていく声です。

聞くと解放され、緩む感じがすれば聞き取れています。

 

 

 

〜自我の思考、自我の声の特徴〜

 

自我(エゴの思考)は罪悪感を植え付けようとします。

自分を責めたり誰か他の人を責めたり競争させたり、

相手と自分どちらかが勝りどちらかが劣るようなことを耳にしたらそれは自我です。

急いでやらないといけない、と焦って駆り立てるようなものも自我です。