私は神か神が私か
スピリチュアル(精神世界)を学び始めて
間もなく、この問題に突き当たった。
私は神。
「私は神」だとワークショップや本で教えられた私の自我は
狂喜乱舞した。
一緒に参加した友人も、自信がなさそうな姿から一変、
自分が本当は神だと聞いて、一時、万能感に溢れた。
彼は自分が神だと聞いたのにも関わらず、他の人を蔑んだ。
自分は神だと聞いて、自分だけは目覚めたので神のパワーを使えるけれど
周りの人間たちは目覚めていないのでまだまだ未熟な存在だと語り始めた。
私自身も、自分が神なんだと教えられ
自分にはどんなことも可能なのか、それなら!と
そこらへんの様々な願望に飛びついた。
しかし、いくつかは実現したがもっとも叶えたかったことが叶うことはなかった・・・
私こそが「神」だと、まだ自らの癒しが進んでいない時期に聞いてしまうと、
「神」という概念を、何でも実現することが可能な自我の自分が神だと捉えてしまう。
自我が万能の力を持った特別な存在なのだと捉えてしまう。
けれど、「私が神」という意味は、
私=愛そのものだと言った方が本来の意味に近いのではないだろうか。
「神が私」なのだという表現の方が解りやすい。
自我が神だという意味ではなくて、私は自我ではなくて神だったということ。
今、自分だと思っているこの自分という意識はちっとも自分ではないということだ。
神という万能の存在、愛そのものの存在、全知全能の存在、
そういう無条件の愛と喜びに満ち溢れたエネルギー体。
それが本当の私。
それが「私は神」の本当の意味。
私が神だと聞いて、ではどんな願いでも叶うのかと
年収3億円を求めるとしたら、
それはまだ自分が自我という限りのある存在だと信じているということだ。
神だということを信じられていないから、限定された金額のお金を求めている。
お金がないと生きていけないと、自我が信じているから、そう望む。
自分はまだ自我だと信じている証拠。
本当に無限の存在、永遠の存在、あらゆる全てが自分だと本当にそう思っていたら・・・
そうした意識に本当に目覚めていたら・・・
怖れが限りなく少なくなり、愛を感じている時間がずっと長くなる。
理由なく幸福を感じ、特定のものを引き寄せようと思う気持ちも消え
本当は自分がこんな体験がしたかったのか、というような奇跡が起こったりするだろう。
自分(みんな)が神だったのだと気付くことこそ
目覚めるということなのだろう。
そして、逆説的だけれど、
私こそが神だと自我はどこかですでに勘違いをしてきたのではないだろうか。
自分こそが、自分が・・・と勘違いした神を演じてきたのが自我だ。
他の人よりも自分の方が価値があると思ってしまう、そういう偽りの神。
私は神。
でも私だけが神だと思うのなら、それは自我が偽りの神を演じている。
私は神だと本当に思うとき。
例外なく他の人のことたちも神だと思っているはずだから。
私たちはみな大海という神から生まれた一滴の神の子。
私たちはいつか神へと還る。