自分の人生は100%自分の思い通りになります

変わりたくても変われない、人生変えようとしても変わらないのはなぜ?

願いはあるけれど、願いを叶える方法がわからない時は

私はこんな願いが叶えたい。

こんな風になりたい。

 

 

 

でも・・・

方法がわからない。

わかったとしても自分には無理かもしれない・・・

 

 

 

そんな時は、

 

自分がしたいことをなぜしたいのか。

それに焦点を合わせます。

 

 

 

例えば、私はお金持ちになりたい!と思ったとして。

なぜお金持ちになりたい?と心を見てみます。

すると、もう誰にも何にも縛られたくないから。

そんな風に気づいたとします。

 

自由、解放を求めてるんだ。

そう思ったら、「自由と解放」にピントを合わせていきます。

そして、自由や解放というエネルギーに自分を合わせます。

おそらく、瞑想などが役に立つかもしれません。

または、全てを内なる神に委ねてしまうことが助けになります。

 

 

 

そして、それについていつ、どうすべきというのは「そこにピントが合っていると」

目の前にやってくるのでわかると思います。

こうしなさい、というアイディアで自分で行動しなきゃいけないというより

なんだか目につくものとして目の前に現れることの方がほとんどだと思います。

 

 

 

他にも、自分は本を書きたい。と思っているとします。

そこで、なぜ自分は書きいのか?と心に聞いてみます。

すると、一人でも多くの人がお金のために縛られる生活から解放されてほしい。

そんな風にわかるとします。

 

そうしたら、お金からの「解放」に焦点を当てます。

お金から解放されている自分にフォーカスを当てます。

ポイントは、他の人に何かを望む場合でも

自分がまずそれを手に入れている状態をエネルギーレベルで維持することです。

 

そこにのみ、焦点を当てます。

 

 

 

再び、どうしたら願いが叶うのか?

このままではいけないのではないか?そのように振り出しに戻らないことが肝心です。

 

 

 

願いを実現するには、具体策を知るよりも「心の平安」の方がずっと重要だと

引き寄せの法則のエブラハムは言います。

 

即日かもしれないし、数週間必要かもしれませんが

「なぜ」の方にフォーカスを当て、目の前にやってくることに心を開きます。

 

 

 

実は、具体策を考えることは「わたし」の役割ではありません。

どこに向かいたいかフォーカスを当てることが・・・

「まずは神の王国を求めなさい」そうキリストは言いましたね。

それが私の唯一の仕事です。

 

 

 

願いの叶え方がわからない時は、

望む理由の方にフォーカスを当てて過ごしてみてください。

 

 

 

そして、そのエネルギーを先取りしてそこにいてください。

 

全てを自由にさせると万能が目覚める

私たちは自分で思っているよりもずっと

自分を、周りを、世界を・・・コントロールして生きています。

 

 

全てを委ねる。

自分でやらない。

 

 

 

というのは、今日のタイトルそのものです。

 

 

 

委ねる=全てをあるがままにさせる=万能が目覚める

 

 

 

そうすると、神の意識の方がオーケストラの指揮者となって

人生の全てを誰にとっても素晴らしいものになるように

まとめ上げてくれるんですね。

 

 

 

私の小さな経験があります。

私は同じ種類のワンちゃんを3回迎えています。

1回目に飼ったワンちゃんがゴミ箱をいたずらしたり、

柱をかじってボロボロにしてしまったりしていたのですが

2回目に飼ったワンちゃんの時にそれが起こらないように

「しつけ」をしてしまったんですね。

 

そして、その「しつけ」は効果があるように見えて

ゴミ箱のいたずらも、柱も無事だったのですが

今度は前のワンちゃんには見られなかった「噛み癖」が出現したのです。

 

 

 

思っても見なかった「噛み癖」「唸る」・・・

しつけをしたことで以前より大変なことになってしまいました。

私がしたしつけはコントロールになってしまったのです。

しつけそのものがいけないのではなくて、

私はワンちゃんのためにしつけたのではなくて

自分が困るのでワンちゃんを抑え込んでしまったんですね。

そうしたら、別の問題が発生してしまった・・・

 

 

 

それで次に迎えた子には一切のしつけはしませんでした。

お手洗いだけは教えました。

そうしたら、ゴミ箱のいたずらも、柱を噛むこともなく

噛んだりして傷つけることも、唸って威嚇することもありません。

何もせず、自由に育てました。

たまにテーブルの上に立ったりしていることもありますが・・・

ご飯をくれとねだって吠えることもないですし、

なんの問題もなく、本当にいい子に育っています。

問題はないどころか、自分の望みをしっかりと伝えてくる

コミニュケーション力の高い子に育ちました。

目や手を使って器用にコミニュケーションを図って心のつながりが深くなりました。

 

 

 

こういうことなんだろうな・・・と思いました。

自分の都合で抑え込もうとしない。コントロールしない。

自分にとって都合の良い存在になってもらおうとしない。本当に大切です。

 

 

 

個人的に思うことですが、親があれこれ口出しをして

コントロールしようとすればするほど

子供は引きこもるか、グレてしまうような気がしています。

結局、誰も何もコントロールしようとしても、コントロールできないんですよね。

私たちは本当にこのことに早く気が付かないといけないと思っています。

 

 

 

ワクチンで抑え込み、コロナがなくなっても次の流行病はいずれ出てくるでしょうし、

迎撃ミサイルでミサイルを撃ち落としても、相手はそれ以上のミサイルを開発してきます。

ネズミ退治する薬を開発しても、それに耐性を持った子孫が生まれて、

その薬の効果は有効でなくなります。そしてまた開発・・・

そんな風に、ネガティブなものを取り除こうとするコントロール

止むことはありません。

その連鎖、いたちごっこは決して止みません。

問題を取り除こう、問題を取り除こう、問題を取り除こう・・・

ずっと問題は現れ続けます。手を替え品を替え。

私たちはそういうことをずっとやってきています。

地球レベルで、世界レベルで、国レベルで、団体レベルで、家族レベルで、個人レベルで

ほとんどの人がずっとやってきました。

 

 

 

私たちは「信頼」という私たちの本来の姿である命の質を思い出し

まずは自分自身を自由にさせる必要があるのでしょう。

 

 

 

例えば、何かに執着しすぎない、不安に備えて未来のために溜め込まない。

将来が不安だからと嫌なことを自分に強制しない。

ということも当てはまると思います。

そのためにも自分が誰であったかを思い出す必要があります。

自我(思考)が思いつくほとんどのことはコントロールですから、

内側の神の声(愛)を聞き、従うことが大切です。

 

 

 

これが本当になされれば、逆に貧困や泥棒というのも無くなるのではないでしょうか。

世界というのは自分の表れであるのなら、

まず、自分から少しずつ変化していく必要があります。

 

 

 

そして、何よりも自分をコントロールして

何をしなければいけない、何をしてはいけない、

嫌だけれどやらなければ・・・とコントロールしていることを止めれば

わたしの中の万能の力が目覚めて起こるべきことが起き、

もっと楽に、もっと伸び伸びと生き生きと自分らしく

本当の自己を生きられるのではないでしょうか。

 

 

 

逆説的ですが、まだコントロールしてしまう自分、

不安から動いてしまう自分があるのならそれに対して罪悪感を持たないことも

自分を自由にすることになります。

 

自由にさせるとは、批判しない、罪悪感を持たないことでもあります。

 

私たちは自分の力で生きているわけではないことを思い出すと・・・

私たちは「生かされている」と聞いたことはありますか?

 

 

 

私は昔、細木数子さんやオーラの泉の江原さんや美輪さんたちが

「私たちは生かされている」

そんな風に話していたことを子供ながらに覚えています。

 

 

 

当時は全くピンときていなかったし

どんな意味で著名人の方々が話されていたのかはわかりませんが

確かに私たちは「生かされている」のだと今は思います。

 

 

 

生かされている=命を与えられている

 

という意味で私はそう感じています。

 

 

ちなみに「命」とは、身体のことではありません。

身体がたとえ滅びても永遠に続いていく「命」の方です。

 

 

 

昔、父の部下が亡くなった時に、身体がとても大きな人だったのですが

「魂が抜けてしまっているから身体が小さくなってた」なんて

父が話していたことがありました。

 

身体そのものはわたしたちではなく、

ほぼ炭素と水とういう物質でできている身体というものに吹き込まれている

生き生きしたエネルギーの方が「命」です。

 

 

 

それが私たちの本質であり、神です。愛です。

 

 

 

私たちはこの命を神と共有しているからこそ

罪がなく、気高く、完全であり、麗しく、偉大な存在なのです。

 

 

 

この命の力そのものが私たちなので

私たちはこの素晴らしさから離れたことなど一度もありませんでした。

今も、この素晴らしきものと共にあります。

 

 

 

そして、わたしたちを命あるものとしているのはこの命そのものなので

決して、決して、決して・・・自分の力で生きているわけではなかったのです。

 

 

もう一度書きます。

 

自分の力で生きているわけではないのです。

 

 

 

自分の力でこの命を維持してきてもいないし、維持できるわけもないのに

あたかも全て自分の力で生きてきたように思い込んできたし、

これからも自分でこの命を維持しなければいけない、ああ、どうしよう荷が重い・・・

と思っていたりするんです。

 

 

 

なぜなら、命そのものに目を向けるのではなく、

身体を命だと思い込んで、身体をなんとかしないといけないと思ってきたし、

命そのものではなく、身体が持つもの、身体が着る物、身体が住む場所、身体が獲得するもの

そうしたものに目を向けているからなんですよね。

 

 

 

生きることが大変で、辛くて、苦しくて、劣等感を感じたり、焦りを感じたりするのは

永遠の命、気高い命を自分だと思うのではなくて

生まれて、いつかは死ぬと思っている身体を自分だと思っていて

その身体の自分をなんとかしてあげなければ・・・と思っているからなんですよね。

 

 

 

私たちは身体が使えなくなったら

意識もろとも自らは消滅すると思っている方もいるかもしれませんが、

身体と命は別のものなので、私たちは消えません。

 

私は身体から意識が出たことがありますが、

身体の外側が自分で身体はその下を歩いていたことがあります。

今の身体に戻らなくなったら、いわゆる死という状態なのかもしれません。

 

 

 

命は、それそのものとして豊かさに溢れています。愛に溢れています。

創造性に溢れています。私たちが知りえる全て、それすら超えた全てを持っています。

その命が内側に存在しているので、

私たちはその命に全てをおこなってもらえば良かったんですね。

そして、ぜひ、これからはそうしませんか。

 

 

 

そのためには、もう自分でやらない。ということです。

私たちは自分で計画したり、欲しいものを決めてそれを手にしようと色々やってきました。

それは手に入ったでしょうか。

そしてそれを手に入れて幸せになったでしょうか。

もし、自分でやっても思ったように結果になっていないのならば・・・

 

そろそろ全てをお願いしてはいかがでしょうか。

限られた「自分」を使うよりも、無限の「自分」命にやってもらう方が

ずっと驚きと喜びに満ちた人生が待っていそうではないですか。

 

与えるとお金は増える?与えるの本当の意味とは

先日は「受け取る」について書きました。

 

 

 

今日は「与える」の意味についてです。

 

 

 

与えたものが戻ってくる。

人生の秘訣は与えることだ。

ペイフォワード。

そんなふうに自己啓発セミナーなどでも教えられますし、

いろんな本の中でも語られていることだと思います。

 

 

 

そう聞くと、少なくはない人たちが

「そうか、自分が貧しいのは与えていないからだったのか」とか

「自分は愛を欲しがるばかりで相手に与えていなかったから、うまくいかなかったのか」とか

後悔とか、反省とかすると思うんです。

 

 

 

ビジネスセミナーなどでも、

もっと顧客のニーズに応えられるようにしなさい、とか

まずは情報でもなんでもこちらから提供すること、とか

教えてもらったりするかもしれません。

 

 

 

それから、一時期「神社ミッション」なるものが流行っていると聞いたことがあります。

まず、お金がなくても神社に1万円をお賽銭するとお金の回りが良くなる・・・とか。

 

 

 

まずは出すこと。

それで自分の元に戻ってくるのを待つ。

そんなイメージでしょうか。

 

 

 

こういった感覚が根付いていると言いますか、そういった方は

そもそも自分のことは後回しにして人に自分の分までも与えてしまう。

そんな方も少なからずいらっしゃるかもしれません。

いつか認めてもらえると期待して・・・

いつか自分がいなきゃダメだといってくれることを期待して・・・

 

 

 

ところでそのやり方で本当に豊かになった方はいるのでしょうか?

愛された方はいるでしょうか?

私が知っている限り、いないように思います。

 

 

 

なぜなら自分には「ない」と思っているものを与えることはできないからです。

形としては、自分の元から相手の元に物が移動するかもしれません。

でも、それは本当に豊かな思いが自分の元にあって、

それを分かち合うためだったのでしょうか?

自分は不十分だという思いから物でなんとか誤魔化そうとしていなかったでしょうか?

 

 

 

自分の元には「ない」と思っている、

それでとりあえず “先に” 出すことでリターンを期待する!

 

それって与えてません(笑)

 

それは取引!しかも知らないうちに相手を取引に巻き込んでいる!

 

 

 

それはもう、男の人がご飯奢ってあわよくば・・・って思っているのと同じです。

それでたまにはいいことあるかもしれませんが、

 

そんなことをしているうちに、あれだけしてあげたのに!とか

自分はこんなに相手にやってあげたのに!とか

自己犠牲感が募って、相手に怒りを感じたりするんですよね。

 

 

 

ないから与えたら入ってくると聞いて、あれ?入ってくるはずじゃなかったの?

そう思っている時、

↑ こういうこと(ご飯奢ってあわよくば・・・みたいなこと)やっているんです。

こう聞くと、なんかやだって思いますよね。

でも、与えることで自分を満たそうって思っている部分では同じなんですよね。

 

 

 

「ない」と思っているのに、

何かを絞り出して与えることはできません。決してできません。残念ですが。

ないものは与えることができないんです。

 

 

 

いや、持っているもの確かに与えただけだけど・・・

と思う方もいるかもしれませんが・・・

 

 

 

物を与えることが与えることではありません。

持っているものをこちらからあちらに移動させることが与えることではないんですね。

 

 

 

自分が与えた時、それは広がり増えていったでしょうか。

与えた瞬間に受け取るものはあったでしょうか。

それがあれば、与えていることになっています。

 

 

 

与えるのは物ではなくて、物に乗せている気持ちの方です。

何かを分かち合っている時、豊かな気持ちが相手に与えるものです。

豊かな気持ち、喜びから分かち合っていると、分かち合っているその時から

既に更なる豊かさに自分が満たされます。

与えた時のその満たされた気持ち、それがリターンです。

与えた瞬間に受け取るもの。それが与えたら受け取るの答えです。

 

 

 

例えば、絵を描いて、歌を歌って、何かを書いて・・・その時、自分は幸せに感じている。

その喜びは世界に広がっていき、世界にポジティブな影響を与えています。

 

 

 

自分が満たされていること=与えること

 

です。

 

 

 

自分が安らかでいること=与えること

 

です。

 

 

 

その満たされた感覚、安らかな平和の感覚、それが世界に映し出されて

豊かさとしていろんな形でどこからともなくやってくるように見えるのですね。

有形、無形で。

 

 

 

なので、相手のニーズを先に満たす必要もないし、

自分を犠牲にする必要なんて全くないんです。

ないお金を無理してお渡しする必要もありません。

 

 

 

本当に満たされたところしか広がっていかないし、

与えることもできないのです。

 

 

 

だからこそ、まずは自分を満たしましょう。と言われてきましたし

内なる神と繋がって、全てを持っていることに気がつきましょう。と

言われているんですね。

持っていると思っているものしか受け取れない

与えることと、受け取ること。

 

与えることの重要性が書かれている本は数多くありますが、

受け取ることについて詳しく書かれた本はあまりないと思います。

 

 

 

私が思うに、受け取ることが本当に上手な人というのは

あまりいない気がしています。

 

 

 

受け取ることが上手というのは、うまいことを言って

相手から引き出そうとしたり奪い取ったりすることとはもちろん違います。

 

 

 

弱者のふりをして施しを受けることとも違います。

 

 

 

最近、妙に納得したことがありました。

 

空っぽだと思っている自分がいたとして、

その自分を満たすために外側から何かをとってきて増やそうとしても

決して増えることがない、ということです。

 

 

わかりやすくいうと、

 

異質のものは受け入れられない

 

とでも言いましょうか・・・

 

 

 

豊かだと感じているところにさらに豊かさがやってきて・・・

 

というのが受け取るということなんですね。

受け取り上手の状態の時は、すでに十分豊かさを感じている状態です。

 

 

 

でも、自分は貧しい、愛されない、自分は不十分だというところに何がやってきても

受け取ることができないんです。

そして、受け取ることができないからそれに抵抗してしまう。

しっかり受け取ることができないから、もっと頂戴となってしまう。

形としては受け取ったように見えても、心が愛を受け入れられないという状態です。

 

 

 

なので、本当に受け取れるのは

自分の中に全てがある(源と繋がっている)と思っている時しかないんです。

残念だけれども、外側から自分を満たすことはできないんです。

※自我の状態にいると、愛が脅威に移り、愛は異質なので受け取れないんです。

(※自我の状態とは自分自身とは限りある身体だと思っている思考・不十分な自己)

 

 

 

私たち自身がすでに自分が愛の状態であったり、豊かな状態でないと

それ以上互いの中で増えていくことはなく、

互いが自らを足りないと思っている時は、単に取引をして満たされることなく

傷ついたり、罪悪感を感じて終わりになりかねないのです。

 

 

 

愛の状態であったり、豊かな状態というのは

パートナーがいるとか、家庭が円満であるとか、

お金持ちであるとか、自分に自信が持てているとか、

ましてや子供の頃に親に愛されてきたからなどとは全く関係がなく、

自分の本質である内側の神と一体であることを思い出している状態だといえます。

 

 

 

これは無理に自分は神の子であるとか、自分は神だと信じ込もうとすることではないし

自分が神だと信じ込もうとすることは、

そのまま「自分が神だとは信じていない」ということを刷り込むことなので、

まずは「自分は誰であるか本当に思い出したい、助けてほしい」そんなふうに

内なる神にお祈りする、お伝えするのが良いと思います。

 

このお祈りをしている時、

その瞬間は愛と豊かさにフォーカスを向けていることにもなります。

生き延びるために生きるのか?命を表現するために生きるのか?

私たちの世界というのは、

どこに焦点を当てるかで自分がする体験が異なってきます。

 

 

 

焦点を当てたものが人生に増えていく。

 

 

 

動機=結果 そんなお話は何度かこちらのブログでも書かせていただいています。

 

 

 

私たちには貧しい生き方と豊かな生き方と二通りの生き方があると思います。

 

 

 

つまり、生活費や支払いのお金を稼ぐために仕事をしなければという生き方と

自分の中にあるものを分かち合って、表現して与えて、そして受け取る。という生き方と

大まかに分けて二つの方法があるということです。

 

 

 

以前、書きましたが、「仕事」というのは怖れ(不安)から生まれている概念です。

お金を得るためにはどうしよう・・・という動機から生まれているからです。

これはお金を欲しがってはいけないということではなくて、

自分が空っぽである、足りない、もっと必要な存在だと認識しているところから

スタートしている部分が問題だということなんです。

 

 

 

お金をベースに考えると自分が制限されていきます。

 

 

 

次に、自分は何を表現したいのか。という観点から生きる生き方です。

自分は何を表現したいのか分かち合いたいのか?の前提は

自分の中には「ある」が前提です。喜びがそこにはあります。

そして、常に具現化されていくのはこの意識の中の「ある」なんですね。

自分の中にある。それを出す。そして与えたところに器が出来上がって受け取る。

その自然な流れです。

豊かさとは自然な流れであって、取引ではありません。

 

 

 

仕事は取引です。

これだけ与えたのだから、これだけください。

豊かさが循環している感じではないですね。

 

 

 

自分の中にある命(愛)を表現するというのは、

神の望みでもあります。

それは、神(宇宙)の手足となって働くということです。

そして神(宇宙)はわたしたちをさまざまな形で養ってくれるんですね。

 

 

 

愛を表現して、愛を受け取って生きていく。

それが多くの人の望みではないでしょうか。

 

 

 

私たちが何を体験するかは自分で選ぶことができます。

生存を第一に考えて怖れの世界を生きるのか、

愛を表現し、分かち合い、愛の世界を生きるのか。

私たちは選ぶことができるのです。

「いい気分でいれば願いは叶う」の本当の意味は解放感だった

いい気分でいれば願いは叶う。

 

 

 

これも、引き寄せの法則でよく言われてきたことです。

 

 

 

でも、多くの人が「いい気分でいるのが難しい」

そんな風に言います。

それで、いい気分になれない自分を責めたり、悪いものを引き寄せないか不安になったり、

引き寄せられないことに悩んでしまうんですね。

 

 

 

まず、思い出したいのは

いい気分=安らか、心が開く、親しみを感じる、自己肯定感を感じる・・・

 

このように

ホッとした感覚、、

リラックスした感覚、

まるで安心できる自分の家にいる感覚、

 

この感覚の方が本来、自然だということです。

 

 

 

ちなみに引き寄せの法則のエイブラハムは

 

 

 

解放感。

と話していました。

 

 

 

いい気分でいるように努力しなければいけないわけではなく、

本来であれば、いい気分と言われる気分の方が自然な姿なのです。

 

 

 

なのでよく、アルコールを飲めば憂鬱な気分が消えてハイになると言いますが

アルコールが自分をハイにさせるというよりも、

アルコールが自我の鎧を取り去ってくれて

自分で頑張らねばならないと思い込んでいる自我の機能を麻痺させて

「本当の気分」の方が出てくるだけなんです。

 

アルコールだけではなく、恋愛が成就したときや何か良い結果を残した時など

こうした時も晴れやかな気持ちになりますが、

緊張感、かまえを麻痺させて、防御心から解放されるんですね。

 

 

 

私たちは身体が自分自身だと思い、しかもその限りある弱い身体を使って

なんとか頑張ってやりくりしないといけないし

外側から身を守らなければと無意識に思い込んでいますから

そのせいで、いい気分と離れていってしまっているわけです。

いつも緊張しているかもしれません。

 

 

 

そう考えてみると、いい気分になるためにどこかへ出かけたり

高級品を自分にプレゼントする必要というのはなかったんですよね。

それも悪いことではないですし、楽しむためには良いと思いますが

そうしたものがないからいい気分になれなかったわけではないということです。

 

 

 

それから、まずは結果を残してから自由を受け取る。

みたいなことにも慣れてしまっていますよね。

子供の頃から、テストでいい点とったから好きにさせて!とか、

営業成績が良かったんだから早く帰ってもいいよね!とか。

お金稼いでるのだから自由にやらせて!とか。

 

 

 

何かから解放されるためには条件が必要で

無条件に解放されてはいけないと思い込んでいるかもしれません。

自由に生きるには他の人の許可、

または良い結果を出すことが必要だと思っているかもしれません。

これが無理だと病気を使ったりすることもあるかもしれません。

 

 

 

私たちは本当はみんな解放されたがっているのではないでしょうか。

 

 

 

毎日の仕事、未来のプレッシャー、お金や家族のこと・・・

心配、緊張が絶えないんですね。

 

自分で自分の面倒を見なければと思っていますし、

未来のために自分で準備しなければと思っているからです。

 

とっても疲れますね。

でも、もう自分一人でやらなくていい。

自分でやらなくていい。

 

もう戦わなくていい。

解放されていい。そのために何かをする必要もない。何かになる必要もない。

私たちの内なる神はそう言っているのです。

 

 

 

エイブラハム流の引き寄せの法則は、

まず、先に解放感を味わってそれを感じていてください。

全てを自分でやらなくていいですよ。

その時になればちゃんと何をしたらいいかわかります。

と言っているんですね。

 

 

 

大丈夫だから。

あなたは解放感を感じていていい。

全てから自由でいていい。それがあなたの本来の姿。本質。

あなたはちゃんと導かれている。一人ではない。

そう言ってくれているわけです。