自分の人生は100%自分の思い通りになります

変わりたくても変われない、人生変えようとしても変わらないのはなぜ?

「仕事」という概念は怖れから生まれている

私が知った時にびっくりしたこと。

 

 

仕事=怖れ

 

 

だということ。

 

 

 

だから、仕事をしなければいけないと思っている時とか、

仕事を探している時とかというのは、

「心に怖れがある」ということになる。

怖れモードのフィルムを回しているということになります。

 

 

 

それはお金に対する怖れかもしれないし、

ニートだと人に思われるとか、仕事していないことに対する罪悪感とか、

そんな仕事にしかつけないのかとか思われるという怖れとか、

仕事で人から認められるような結果をださなければ、

自分には価値があると思えないという怖れかもしれません。

 

 

 

バリバリ仕事をしたい!というのも、行動力があるというのも、

自分の中の不安感などの怖れから行動してしまっているかもしれません。

 

 

 

怖いから、動いてしまう。

怖いから、行動でなんとかしようとしてしまう。

でも、フィルムは怖いストーリーのままなのだけれど・・・

 

 

 

仕事が、「収入を得る手段」だと考えているとしたら、

それは怖れ。

外側から何かを欲しがること=怖れ だったんですよね。

なかなか気がつきませんね。

 

なので、好きなことで収入を得よう!と言っているのも

その根底には、収入を自分の行動でもってなんとかして獲得しなければならない、

自分でなんとかせねば!という怖れのストーリーになってしまうのです。

 

 

 

そう考えてみると、

「やりたいことをやっていたらそれが自然に仕事になるんですね」

というのも違うということになります。

 

私たちの根底にある、愛を分かち合いたい、内側にあるものを表現したいという思い、

衝動、多分それが本音で、私たちのいわゆる”志事”。

自分にとってベストな方法で愛を延長させていくこと。

それが志事。

 

 

 

でも、その衝動の上にいろんなものが覆いかぶさって、

そんなお金どこにある?とか支払いは?とか、

自分が表現するものなんて誰も欲しがらないに決まってるとか・・・

そういう意地悪いマインドの声で、核にある衝動、本音を歪めていってしまう。

 

 

 

私たちの中にある真の衝動、それをするために必要なものは

衝動を表現して欲しいと願っている「その源」からやってくるはずなのです。

それがお金や身体を支えるあらゆるものなのかもしれません。

 

何か与えていたい、それは自分の生命としてそこに存在する事そのものかもしれません。

自分がそこにいる。

それだけでも愛を延長させている。

そして、それに対して源から支払いを受ける。

 

 

 

だから、仕事を探すのではなくて、収入を得る手段を探すのではなくて、

自分の中の「衝動」に、「源の指令」に気がついていくこと。

そしてそれを生きること。

それが「志事」であって、それが生きる意味であり手段なのかもしれない。

 

 

 

 

したいことをしていれば収入は入ってくるとか、

楽しんでいたら、生活はなんとかなるとか、

ざっくり聞いて、試してもうまくいかない方も多いかもしれません。

 

でも、お金が欲しいから、お金必要だからしたいことしようとか

働くのは嫌だから楽しまなければ!となると、やっぱりずれていってしまう。

そういう部分で「難民」になっている人も多いのだと思います。